ML-T570(4WD仕様)でハイマーが狙ったもの

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ハイマー社の歴史から読み解く4WDの意味

エレガントなフォルムはオフィス街でもマッチ
エレガントなフォルムはオフィス街でもマッチ

キャンピングカーライターの岩田一成さんと、「ハイマー ML-T570」というモーターホームについて語り合うことになった。
なぜ、この車が討議の対象に選ばれたかというと、シャシーに4WDの設定があるからである。
「ハイマー」といえば、ドイツ本国では最高級キャンピングカーブランドとして知られ、ドイツのみならず欧米やアジアにおいても “高級車” の代名詞的存在として認知されている。
それがゆえに、そのインテリア造形はライバル車を寄せ付けないほど洗練されたものに昇華され、「エレガント」「ノーブル」「ソフィストケイト」などという賛辞が惜しみなく使われる歴史を積み重ねてきた。

そういう車が、突然ワイルドな “足” を持った。
メルセデスベンツ319CDI の4WDバージョン(Op.)というシャシーを使い、ラフロードや雪道、砂漠地帯を猛々しく走破するという新しいアピールポイントを獲得したのだ。
エレガントな内装とワイルドな外観という、一見ミスマッチ感覚(?)ともいえる取り合わせを堂々と選んだハイマーの狙いはどこにあるのか? またそういう足回りを得たML-Tという車両は、キャンピングカー文化に何をもたらせることになったのか? 
車両に対する詳しいインプレッションは岩田一成さんの解説に譲るが、ここでは、そういう車を誕生させたハイマーという企業の車両開発思想について若干述べたい。

ハイマー車の開発思想を語ることは、そのままメルセデスベンツの企業ポリシーを語ることと重なり合う。というのは、ハイマーとメルセデスはお互いに資本提携の関係を持ち、ハイマーのシャシー性能の向上を図るためには、メルセデスの風洞実験設備が使われ、メルセデスのテストコースが貸与され、軽量化や安全設計に関しては、メルセデスの技術陣も参加して開発が進められるからだ。
すなわち、ハイマーとは、“メルセデスのキャンピングカー部門” と言い切れるほど、両者は強い絆で結ばれている。

ハイマーのスリーポインテッドスター
ハイマーのスリーポインテッドスター

ハイマーのトップブランドに冠せられる「S」という称号は、メルセデスベンツの最高級乗用車である「ベンツSクラス」と同等の重みをもつ呼称とされ、それを名乗ることはハイマーにしか許されない。
さらにいえば、ハイマーの I 型モーターホーム、すなわちクラスAタイプのフロントグリルを飾るスリーポインテッドスター(ベンツマーク)のエンブレムも、ハイマー車だけに許された特権だ。
すなわち、これを付けているクラスA車両は、メルセデスの乗用車と同じ条件でクラッシュテストを行った車両と見なされ、メルセデス社が保証する安全性をクリアしているという証(あかし)となる。
そういうキャンピングカーは、ドイツ国内においてもハイマー以外にはない。なぜなら衝突実験には莫大な経費がかかるため、メルセデスの全面協力がなければ簡単には行えないようなテストだからだ。

ハイマーが世界のキャンピングカーの頂点に立った理由は、そのままメルセデスベンツが乗用車の頂点に登りつめた理由と重なる。
メルセデスが掲げる「安全性へのこだわり」、「省資源への真摯な取り組み」、「環境問題に応える形でのハイパフォーマンスの追求」といった人類の幸せを標榜する姿勢は、実は第二次大戦における戦争責任の反省から生まれている。
あの時代、世界大戦に臨んだどこの国の企業もみな同じ宿命に見舞われた。すなわち戦時体制を支える軍事産業の要にならざるを得なかったのだ。メルセデスとて同様で、戦争に向かって邁進していくヒトラー政権を支える中核産業としての役割を果たした。
事実、メルセデスの乗用車は、ヒトラーをはじめとするナチス高官が最も信頼した車両であったし、メルセデスのエンジンを載せた航空機や大量の軍用車両が最前線へと送られていった。

戦後のドイツ産業を立て直す使命をになう

アーウィン・ハイマー(1930年~2013年)
アーウィン・ハイマー(1930年~2013年)

ハイマー社が誕生したのも、こういう時代であった。
同社の創業は1923年。創始者であるアルフォンソ・ハイマーが農業用カートの生産を開始したことが、ハイマー社のスタートだった。
しかし、この時代、ドイツの国情は風雲急を告げていた。第一次大戦後の政治体制に不満を感じていたドイツ国民の気分を吸い上げるように、ヒトラーを党首とするナチス党がその不気味な存在感を増していたからだ。
ヒトラーは政権奪取後、「偉大なるドイツの復興」を掲げ、自動車産業の育成に力を注ぐことになる。フェルディナント・ポルシェ博士に大衆車VWビートルを設計させ、交通環境の高速化を意図して、スピード無制限のアウトバーンの建設に着手するなど、自動車産業の振興を国策とする方向に舵を取り始めていた。

ハイマーもドイツの自動車産業と縁の深い土地で生まれた。本社の所在地は、ドイツ最南端のスイスとの国境に近いバートヴァルトゼーという町で、そこはBMWの本拠地であるミュンヘンと、メルセデスベンツ社の本社があるシュトゥットガルドという、ドイツの自動車産業を支える2大メーカーにもっとも近い町であった。

第二次大戦がドイツの敗北に終わった後、ハイマー社に転機が訪れる。創業者アルフォンソ・ハイマーの息子として生まれ、機械工学を学んでからスペインの航空会社に勤めていたアーウィン・ハイマーが1956年に故郷のバートヴァルトゼーに戻ってきたのだ。
それを機に、ハイマー社に新しいプロジェクトが発足する。それがキャラバン製作、すなわちキャンピングトレーラー事業だった。
このキャラバン事業を支えた一人の科学者として、エーリッヒ・バッケムの名を忘れてはならないだろう。彼は、戦時中ナチスの命を受けて、有人ロケット迎撃機(Natter ナッター)プロジェクトに関わった男であり、後にアメリカのNASAでアポロ計画に携わることになったヴェルナー・フォン・ブラウン博士が、ナチス政権下のドイツで「V2ロケット」を開発していた頃、そのグループの一員として活躍したこともあった。

戦後エーリッヒ・バッケムは自分が身につけたロケット開発技術の平和利用を夢見ながら、技術ディレクターとして、鉱山機関車やディーゼル機関車などの開発に従事していた。 そんなとき、バッケムはハイマーの新しいプロジェクトを計画していたアーウィン・ハイマーと知り合う。ともに、航空機エンジニアとしての知見を持ち、機械工学にも造詣が深かったバッケムとアーウィンは、同じ分野の技術者同士ということもあって、意気投合するのも早かった。そして、互いの研究成果を寄せ合う形で、まったく新しいキャラバンの創造に着手することになった。
それが、1957年に開発された「トロール」である。以降、「ピュック」「ツーリング」「ノヴァ」というブランド名で親しまれることになるキャラバン群がそれに続くことになる。 この「トロール」が製作された1957年をもって、キャンプモビール事業を専門に行う「ハイマー」が誕生したことになる。2017年にハイマー社が「60周年記念」を謳ったのは、同社のキャラバン開発が始まった1957年を元年としたものだ。

1957年のトロール
1957年のトロール

アーウィン・ハイマーとエーリッヒ・バッケムの二人三脚で発足したハイマーのキャラバン事業だったが、1960年にバッケムが病気で亡くなったことを機に、ハイマー社は、キャラバンのみならずモーターホーム開発にも着手することになる。
1961年、モーターホームの第1号車として、「Caravano」がデビュー。以降、キャラバンと平行して、さまざまなモーターホームが製作されていくことになる。

モーターホームの第1号車Caravano
モーターホームの第1号車Caravano

1970年、ハイマーは一大市場であるフランスへの販路拡大をにらみ、ドイツとの国境に近いフランスのアルザス地方にキャラバン生産を中心とする第2工場を建設する。それによって、キャラバン製作とモーターホーム製作の拠点が独立することになり、それぞれの生産効率も上がって、ハイマー社全体の事業拡大がいっそう図られることになった。

もともと、このアルザス地方というのは、良質な鉄鋼を産出する土地として知られ、近世以降、常にドイツとフランスの間で争奪戦が繰り広げられた場所だった。
“遅れてきた産業国家” であったドイツにとって、ここを制することは歴史的な悲願であった。
逆にいえば、ドイツは、産業国家としてイギリスやフランスに遅れを取ったからこそ、重工業を発達させることになったという皮肉な経緯を持っている。
つまり、産業革命によって綿織物などの軽工業を発達させたイギリスの姿を指をくわえながら眺めていたドイツは、軽工業をあきらめる代わりに、鉄道や道路建設、さらには工業製品をつくり出すシステムの生産、すなわち重工業を発達させる道を歩むことになった。
ハイマーやメルセデスに共通するテクノロジー尊重精神は、そういうドイツの工業史を背景に生まれてきたものである。

そして、1971年。ハイマー社は運命を変える年を迎える。
この年からメルセデスとの関係が始まるからだ。ハイマーはメルセデスから正式にシャシー供給を受けることになり、以降メルセデスが世界の乗用車の頂点へと駆け上っていく姿を追うように、ハイマーも、世界のキャンピングカーの頂点に向かって走り始める。

1971年のモーターホーム
1971年のモーターホーム

その時代のドイツという国は、どういう国であったのか。
それに触れることは、ハイマーとメルセデスが目指したものが何であったかを端的に語ることにつながる。
71年には、まだ統一ドイツは生まれていない。ハイマーとメルセデスが互いに手を携えて走り出したのは、「西ドイツ」という国であった。
戦争の惨禍に見舞われつつ、さらに連合国から戦争責任を追及された西ドイツは、人道的にはユダヤ人虐殺の汚名もかぶらなければならなかった。
したがって、ドイツの主要企業は、戦前の国家的悪行を反省しながら、戦後ドイツの建国理念が「人類の平和と安全の追求」にあることを証明するような仕事を求められた。

ハイマーとメルセデスは、ここでもその国家的課題に応えることになる。当時「自動車」は、世界の平和と繁栄を象徴する最大の文化的資産になりつつあった。
その自動車づくりにおいて世界の頂点を極めれば、それがそのまま「平和と繁栄」を実現した国家とみなされることがはっきりしていた。
先頭を走っていたのは、アメリカ車だった。1950年代から60年代にかけて、アメ車は、自動車をコンファタブルな“移動のための道具”として確定するという偉大な功績を残した。 エアコン、パワステ、パワーウィンドウ。現在車に不可欠とされる快適装備はすべてアメリカ車によって実用化されたものばかりだ。さらにこれらの “楽ちん装備” を載せたまま、大排気量エンジンにものをいわせて強力無比な動力性能を手に入れていたのがアメ車だった。

1994年モデルのハイマーモービル670
1994年モデルのハイマーモービル670

ついに本気を見せつけたハイマー

ハイマー本社
ハイマー本社

メルセデスは、そこに目を付ける。アメリカ車の生産技術と快適装備を学んだ同社は、スピードリミット・フリーというアウトバーンを背景に、「高速の安定性」という新しい機能を前面に押し出し、アメ車の牙城にぐいぐいと食い込んでいくことになった。
もともと車の魅力として、“スピード” は欠かせないものだ。それを信じられないくらいの安定性を保ったまま獲得したメルセデスは、たちまち世界の車づくりの価値観を書き変え、新しい自動車テクノロジーの誕生を声高にアピールすることになった。
面白いのは、このときアメ車によって実現された快適空間の思想は、ハイマーによって、キャンピングカーの室内空間の設計に生かされることになった。

ハイマーS830(2008年)
ハイマーS830(2008年)

そのような歴史を振り返ると、このハイマーML-T570(4WDバージョン)という車の本質も見えてくる。
これは、かつてのドイツ陸軍から圧倒的な信頼を寄せられたドイツ機甲師団の中核ティーゲル戦車の “平和利用” である。
第二次大戦下のドイツの軍事テクノロジーは群を抜いていたが、そこで恐るべき性能を発揮したドイツ戦車の悪路走破性を、人類の平和と安全のために復活させたのが、このML-T570(4WD仕様)の意味だ。
すなわち、戦争中に敵の塹壕を突破していた力を、スキー場のゲレンデに向かうための雪道走破性に変え、敵の鉄条網を踏みにじっていた力を、釣り場のポイント探しや野鳥観察のために泥濘地を越えるパワーに変えることが、ハイマーML-T4WD仕様に与えられた使命なのだ。

現在、ヨーロッパにおけるキャンピングカーシャシーの70%はFF車であるフィアット・デュカトによって占められているといわれる。
そういうなかで、ハイマーとメルセデスは、FF車のフィアットとは一味違ったFR車としてのシャシー性能を追求してきたが、その集大成の一つがこの4WD車両である。ハイマーML-T570(4WD)とは、そういう車両であると理解してかまわない。

mlt570_11
WRITER PROFILE
町田厚成
町田厚成 (まちだ・あつなり)

1950年東京生まれ。 1976年よりトヨタ自動車広報誌『モーターエイジ』の編集者として活躍。自動車評論家の徳大寺有恒著 『ダンディートーク (Ⅰ・Ⅱ)』ほか各界著名人の著作の編集に携わる。 1993年『全国キャンプ場ガイド』の編集長に就任。1994年より『RV&キャンピングカーガイド(後のキャンピングカースーパーガイド)』の編集長を兼任。著書に『キャンピングカーをつくる30人の男たち』。現キャンピングカーライター。

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